
(昨日の記事でも掲載した1976年(昭和51年FUJICA ST605)
小型軽量化し、廉価になったFUJICA ST605(1976),開放測光化605II,(1978),AE化とズームレンズ標準装備のAZ-1(1977)も小型で廉価で新技術を盛り込んだものの、あったもののM42プラクチカマウントで時代遅れの感があった。
マウントの変更が求められたのであるが、マウント変更後ユーザーの動向がどうなってしまうかメーカーは迷うところだ。
FUJICA ST-Fの出た同年、欧米市場にこのようなモデルを送り出している。様子見であろう。

バヨネットマウントのFUJICA STX-1である。
スペックなどはST605と同様な、最高速は1/700だがシャッターの機構は違うようで、音も感触も違うものだ。
ちょっと様子見的な面白いところがある。

STX-1はそこそこ共通点はありそうだが相違点もある。
マウントを付けているエプロン部は、ST605は上部で前へせり出しているが、STX-1ではせり出さず直線である。
またST605のトップカバーのペンタ部は。頭頂からゆるい傾斜で、FUJICAのロゴのついている垂直部分の直前で傾斜がきつくなる2段階の傾斜を成しているが、STX-1においては、ST605の急傾斜になる部分からエプロンのせり出しまでスパンとバッサリ切っている感じである。また正面から見て、トップカバーとエプロンの接続部分の幅がST605では同寸なのに対してSTX-1ではやや狭い。
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以下、下の横横線部まで、ネットでこんな映像を拾った(自分でばらせばいいのだが、ネジを飛ばしたりすると嫌なので)
・STX-1
変更しました感満載でもある。ネームプレートをネジで両脇を止めるなどはなかなか面白い。
トップカバーは金属板である。
そしてその後継機の
STX-1Nでは

ややや、ネームプレートの下をより固定が強固になるように盛ってある。
それだけではない。軍幹部のシャッターダイヤルから巻き戻しダイヤルにかけて、盛ってあるのだ。

こうなるとトップカバーは金属ではない。プラである。
盛るも凹ますも自在だ。
___以下はオリジナル写真_______________
電池の入れ方も変化している。電池そのものを入る位置は似たようなものだが、軍幹部から縦に入れるか背面部から横に入れるかの違い。



ネームプレートを止める下地の部分が盛ってあるから、ネームプレートの下でビス止めしてもガタつきはない。
っつ~~ことは、
1979年の翌年、新たなシステムとして登場するAXシリーズの様子見としてSTX-1はトップカバーやエプロンに関して、巻き戻しダイヤルの径の変化など以外はST605に似ている(シャッター機構などでは改変がなされている)。
そしてSTX-1Nは1980年に新規登場するAXシリーズなどと同様にプラによるトップカバーだ。
そしてAXシリーズではペンタブ下がさらにスリムとなり、エプロン部はさらにスペースが余ることになる。
もちろんネームプレート下のビス止め方式だ。

このフィルム時代のXマウントは当時としては大変大きなバヨネットマウントで、Xマウントレンズ用の絞り込み機構と、旧来のフジカなどのM42スクリューマウントレンズの絞り込み機構と両方持っているのが面白い。
Xマウント用にはレバーが向かって左から右へと動き、M42スクリューマウント用には、手前に突くピンが出てきて、マウントアダプターに付属の黒い金属板を押し、レンズ後方の絞り込みピンを押す。
M42アダプターとしては最も使い勝手のいいものの一つである。
自動絞りが効くのだ。

横に並べてみよう

そして、同年の海外向け様子見商品STX-1よりも、翌年のAXシリーズに似ているのであった。
1970年代にこの頭頂部とデコを持っているのはST-Fだけで、80年代からのAXシリーズの頭頂部とデコを先取りした格好となる。もちろんフジカAXシリーズのデザインなどは出来上がってはいたのだろうが、市場に出る前であったのである。
セディックが企画を持ち込んだ割にはフジカの新シリーズを先取りしたデザインにするなんぞ大した心行で、
HANIMEX35 REFLEXFLASHの方より2か月遅くなった甲斐はあったのである。
しかし両方のデザインのみならず、部品などまでカスタマイズしたセディックは偉大だ。
~~~~~~~~~~~~完~~~~~~~~~~
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- 2019/05/23(木) 14:57:05|
- FUJICA ST-F道とHANIMEX REFLEX FLASH 35道
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(本家FUJICAの意匠の先取りをした、セディック製FUJICA ST-F・1979年/昭和54年)
令和になって初めての投稿となってしまった。
理由はPCクラッシュであった。
友人が「ギャラは少ないけど中古のタブレットPC付きでどう?」
という仕事をくれたのだ。今の生活でPC抜きは考えられない。
ありがたくお受けした。
とはいえ、いったん中断したものは中々再開が億劫である。
躁状態が切れたのだ。
FUJICAブランドの富士写真フィルムのカメラで35㎜1眼レフに参入したのは、
他社よりずいぶん遅い1970年(昭和45年)FUJICA ST-701からであった。
昭和45年当時でもちょっと旧式なTTL絞り込み測光で、メカニカルシャッター機である。
シャッター幕は、まだ当時のトレンドである布幕式である。
第二次大戦後レンズやカメラは、写場の大型カメラ用のレンズ、スプリングカメラなどを作り、新種ガラス(希元素土類入り)を作るために「白金るつぼ」を使用したライカマウントの超大口径レンズなどの意欲的な高級レンズを作成。
FUJICA FLEXなど、6x6判2眼レフなど、ゴージャスで独創的なものを作ったものの、カメラにおいて基本的にはレンズシャッターを使ったカメラ類しか作らなかった。
とはいえ、35㎜レンズシャッター機もフォーカシングを背面ダイヤルで行い独創的でスマートな田中芳郎氏のデザインを採用、レンズも大変良かったこと、評判は大変良いものであったが、35㎜カメラにも参入は遅れた感はある。あれだけブームになった2眼レフも、二眼レフとしては当時破格のf2.8レンズを搭載し、レンズボード繰り出しののち、さらに前玉回転式も併用して最短距離を稼ぐという独創的で、高価でデザインに優れた独創的2眼レフを1機種(しかも少数)出しただけだった。
何しろ、フィルム(ガラス乾板)屋さんであり、プロ用写場レンズ、現像関係のものなどなど、ベースは感剤屋さんだ。
カメラやレンズに関しては、プライドが先に立った感はある。
もっとも、フジペットなど子供用やその他普及型フィルム促販型のカメラもあるが、1960年代後半(昭和40年代前半)頃までレンズ固定型のレンズシャッター機でも高級路線、独創路線を維持した。しかし、レンズシャッター機のみに徹したのはリコーと似ていてどちらかといえば庶民寄り添い型のカメラ作りだ。
であるから、初のレンズ交換型の1眼レフFUJICA ST-701は凡庸でパッとしない感はある。
1970年というと1眼レフという点ではビミョーな年である。。。
Nikonは決定打のプロカメラNikon Fがまだ現役であり、NikomatなどもNikorレンズを使いたさに買った人も多いこちらは開放側光である。。
なんたって1眼レフの要、アサヒペンタックスはSPで主流派を成していて、現在でもファンは多い。こちらは絞り込み測光。
ミノルタもSR-T101 など上下に分割のCLC式の開放測光を実現しており、キヤノンはプロ向けのものは一時中断、絞り込み測光器を作っていて、RF機の頃のプロユース高級型の往年の威光は、まだ1970年には感じられなかった。
AE機などはコニカオートレックスなど1960年代後半から発売され、FTAでTTL化されるし、レンズシャッター式のトプコンなどではすでにセレン露出計など搭載の60年代前半からAE化もされていた(鉄のカーテンの向こうソビエト連邦なっでは別だ)。
何が言いたいかというと、1970年の時点では、まだ60年代を引きずっているが、71年、72年と時がたつにつれペンタックスの開放測光化、AE化、ニコンのAE化やフラッグシップ機の更新、キヤノンの開放測光化、AE化とF-1という待望のフラッグシップ機の登場など、オリンパスの35㎜フルサイズ(何しろハーフサイズのPEN-Fにこだわっていたから遅れたけど)の小型化に成功したM-1(OM-1)の発売と、なんか目くるめく官能のようなものが漂った時代となった。
1970年のFUJICA ST-701はすぐ旧型化し、マルチコーティングレンズ、開放測光(ST801)、のちにAE化(ST901)と発売するが、純粋なカメラ、レンズメーカには太刀打ちできず、ごてごてと外観が派手な割には立場に華はなかった。

1976年(昭和51年)に、小型化、普及化と廉価レンズを抱き合わせで販売したST605という普及型だけど小型なカメラを出す。
なんでも機構的にちょっと独創的らしく、シャッターボタンも引っ掛かりがあってから「プツン」という独特のフィーリングの音と感触を持ったものであった。レンズも55㎜f2.2(4群4枚構成)と思いっきりスペックダウンしていて、少々無理をしているが、受光素子にシリコン受光素子を採用、極めて俊敏な測光追従を果たし、オイルレスメタルにより油の粘りなどがなく、寒冷地使用に優れていることをアピールした。またミラーボックス内を電子植毛するなど、なかなか良い改革もふんだんにある。
しかし、これで普及路線の1眼レフに決定的に舵を切ったといえる。最高速のシャッタースピども1/700秒とちょっと妙な数字である(正直らしい)。
AE化したAZ-1も1977年(昭和52年)に発売されたが43-75㎜という2倍に満たない半端感あるレンズをつけていた。
しかし小型で普及価格帯を守ったといえるがM42マウントとしては日本の1眼レフでは相当遅くまでM42スクリューマウントを保持していたといえ、ちょいといまいちな感はある。
さて、フジカの1眼レフの70年代はST605IIとAZ-1で終わりであったはずである。
しかしそこにセディック製のFUJICA ST-Fが登場。当時フジカ1眼レフも落ちるとこまで落ちたか・・・
という感慨にふけったものである。
ここで富士フィルムの70年代のカメラの動向に関して、富士フィルムの公式サイトをご紹介したい。
https://www.fujifilm.co.jp/corporate/aboutus/history/ayumi/dai4-06.htmlここにもフジカST-Fの記述があり、カタログにも独創的な構造をアピールするなど、富士写真フィルムとしても、セディックから持ち込まれた企画とはいえ、存在を認めていたカメラであった。
以前も書いたが、これの兄弟機は豪州ブランドのHANIMEX35 REFLEXFLASHであり、こちらのほうが発売は2か月早いそうだ。
この「2か月の差・・・」
ここが当ブログの当項目の出発点である。
それはどうやって超シンプルなHANIMEX35 REFLEXFLASHから「フジカ」化させるか、に注力されていたのである。
とにかく、操作を「フジカ化」したのである。
測光ボタンはST701~605などまで続いたレンズの左側に配置をし、シャッターボタンや巻き戻しダイヤルに高級感を出し、フラッシュ部はフラッシュフジカに似せられ、チャージランプもフラッシュフジカと同様の計上で緑色のランプとする、という所迄は一から何からHANIMEX35 REFLEXFLASHとは変えフジカでございとした。フラッシュまちっくの採用とレンズの出っ張りを長くしてまでフジカのメンツを保った。そしてペンタ部まで大きくして「1眼レフらしいケース」をつけたのだ。
ああ、また最終回に行きそびれた。。。
それだけではない。意匠上も未来の予言を行っていたのである。
- 2019/05/22(水) 22:57:25|
- FUJICA ST-F道とHANIMEX REFLEX FLASH 35道
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