
最近カタログだのばかり取っていたから最低サイズで撮影した。
今日は温暖な当地でも雪になるのではないかというくらい寒く暗い空である。
一応HANIMEX REFLEX FLASH 35でも撮ったが400でも追いつきそうにならなくなり、
大掃除をしたため 手近なところにあまりカメラがない。
G8にパワーズームの安い方の14-42㎜を付けたものが近場にあった。
望遠端は5.6.感度はあげたくない。ISOは400
設定画素は小さかったがリサイズしてしまえば一緒だ。
このカメラはベイヤー素子でローパスフィルターレスなので、
JPEG撮って出しだとローパスレスの出来損ないのような働きをして、
高解像度なレンズの性能をことごとく消す。
この安いレンズの様に、解像度ほどほど、色はこってりなレンズが、
吉である、
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- 2019/01/31(木) 08:48:46|
- X VARIO 14-42mm/3.5-5.6 PZ(LUMIX G8)
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(KONICA C35EFの資料などに関しては、FUJICA ST-F道とHANIMEX REFLEX FLASH 35道
http://yotarouyokosuka.blog92.fc2.com/blog-entry-587.htmlに書いてありますのでご参照くださいませ)。
私には、定番の構図。これで鎌倉に来たという免罪符のようなものだ。
実はピッカリコニカは40年くらいカメラの趣味をやっていて初めてだ。2001年くらいにJFC会(Japan Familly Camera)に入会して、カメラがプラカメになってしまって,大口径レンズではなくなてしまい、没個性的に見てていたんだけど、実はメーカーごとに個性があり、優秀らレンズを使っていたということと、私はカメラのバラしはやらないが、フラッシュフジカにRDPIII詰めて、リバーサルフィルムでも。というかリバーサルでこそ素晴らしい結果を出したものである。
1980年代後半に、懇意にしていたカメラ屋さん(のちにアルバイトに雇ってもらった)から、キャンペーンなどで下取って値引きセールなどをしたが、もう中古としては売れない。。。というカメラを段ボール1個頂いたが、90パセントがピッカリコニカだった。だから印象は良くなかったの
前期型は電池蓋金属製だが後期型はプラ。フラッシュボップアップスイッチも前期型は金属、後期型は赤いプラスチック、
軽いが有り難くないカメラに見えたのである。
JFC会員のみならず、このれんずはいい!といわれるが、私はやはりフラッシュフジカのFUJINONの方が好きである。
ちなみに前期型は、明るい方に関して1/125のf16であるからISO400フィルムを入れて家を出たが、ほとんどメーターは振り切っていた。





- 2019/01/30(水) 00:44:28|
- HEXANON38㎜2.8、KONICA C35EF(ピッカリコニカ)
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げげげ、SEDICの証の、フィルム枠の蒲鉾状の2本の切り欠きがない。。。
SEDIC製のFUJICA ST-FもHANIMEX REFLEX FLASH 35もミラーの裏に植毛氏を貼ってあったりするがこちらは少々安普請で、ミラー角の調整ネジなどがある。
SEDIC会社整理後のセイケンではこの切り欠きは入れていたのであろうか、そもそも、新規の受注は受けていたのだろうか。。。
セディックの流れでない会社でMADE IN JAPANだとどこの可能性があるだろうか。
わかっていること。絞が2.8-22まで。フラッシュのモードがあるが特にフラッシュマチックの様子はなし。
・絞リングを回し、絞リング上にあるボタンを押しながらファインダー上部の+・-を見ながら絞を決める。
・マニュアル露出でEEではないが、絞は自動絞りになっている(シャッターを切る前後は絞開放でシャッターが開いている状態で絞られる。
・絞の形状はごく簡易な2枚くらいのものだ。この時代のEEカメラのプログラムシャッターの様にいびつな形をしている。
・当然絞が別にあるのだからFUJICA ST-FやHANIMEX REFLEX FLASH 35のような奇想天外なプロフラムシャッターではない。
・しかし、ミラーシャッターがフルスイングするか途中で蹴落とされるなどの機構がある可能性はあるが、FUJICA ST-FやHANIMEX REFLEX FLASH 35の場合、聴感上f2.8の時スロー寄りと、16の高速寄りのシャッター音は聴覚上感知できるがこの機種は感知できない。単速、もしくは上にあげた両機種ほどの変化はないように思える。
このカメラのことは
FUJICA ST-F道とHANIMEX REFLEX FLASH 35道のカテゴリーに入れてしまっている。であるので情報などお持ちの方、ご興味のある方は是非ご覧ください。
カメラの写真は重複になりますが外観だけ又貼ります。





- 2019/01/26(土) 23:12:51|
- HANIMEX RF35d
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(なんと新発売時にはピッカリコニカの愛称ではなく、前モデルまでの「じゃ~に~」の愛称が使われている)
確定的な資料が薄い中、取説や、パンフレットは第一次資料となる。
しかし、完全なるエレクトリックフラッシュ内臓カメラ、KONICA C35EFは、メーカーサイトに1974年(昭和49年)のページにカメラの写真が載っていても、1975年(昭和50年)のページに3月発売とある。
私の持っているパンフレットの最後に小さく7502C30と書いてある。
想像するに75年02月・・・3月発売説は正しいのかもしれない。発表はもっと前だろう。
KONICA C35EF前期型のシャッター速度は1/60と1/125秒だ。

この後、後期型では1/250秒が付け加えられ、セルフタイマーが付け加えられる。
これは、追従したフラッシュフジカの方がセルフタイマーを供え1/4~1/800秒迄のプログラムEEシャッターを内蔵し機能が充実していたこともあるのだが、もっと別な角度から見ることができる。
1976年9月、海外向けに、11月に国内向けに発売されたフラッシュフジカ・フラッシュフジカデートは同時にフジカラーF-II400(ASA400)と同時に世に送り出され、F-II400・24枚撮りを同梱し、F-II400の使用を推奨している。
世界初のISO400のネガカラーフィルムである。

新しい技術の投入された高価なフィルムをどんどん売りたいとの思惑もあろうが、一つはゾーンフォーカスの被写界深度稼ぎ、また、感度が高くなれば大光量ストロボを使うのと同じ、と宣伝されている。
前期型の発売されたときの小西六のネガカラーは、サクラカラーII(ASA100)20枚撮りであった。

もちろん前期型のC35EF(ピッカリコニカ)もASA(ISO)400に対応している。
しかしそれはモノクロネガの話だった。KODAKのTri Xなどである。
であるからC35EFの発売当初は主にファミリーカメラにはカラーネガフィルムが主流になっていたし、
白黒写真をこのカメラで撮ろうなんてへそ曲がりはいなかったであろう。
テレビもカラーが主流となり(白黒テレビとカラーテレビの生産の逆転は昭和44-45年だ)、
ファミリー写真はカラーである。
フジカラーF-II400はまだ発売されておらず、カラーはASA100が当たり前だったし、F-II400が出ても、普段使いには、画質的に役不足な感があった。
ISO400のネガカラーで、フジカラーが各社よりこの後もリーダシップを取って行く。
HR,HRII,と進み、HRIIは色は良くなったがまだ粒子が荒くてと思っていたが、次のHR Superでこれぞ常用の域と思いを新たにしたものである。
現在でいうと働く時間はブラックでも、収入はどんどん上がる時代の昭和40年代前半、
昭和44年に「モーレツ」という合言葉でTVCMで丸善のガソリンのCMが流行ったが(奇麗なおねぇさんのスカートがめくれるのもあったろうが)、猛烈な時代を超え学園紛争も収まり、時代が落ち着きかけたころ、第一次オイルショックを乗り越え、狂乱物価の後¥31,800-という値段を引っ提げてやってきた。昭和50年代という新時代の到来、これ1台でどんなところでも撮れそうなカメラの到来、
この全能感は現在に至るまでも、カメラの消費に必要な感覚である。
ちなみに昭和49年に幼稚園に入園した私は、昭和50年台という新しくあか抜けた時代を感じていた。
試作段階での感電事故による影響らしいが、フラッシュ内臓のカメラは。いわゆるプラカメとなる。
これも新しい時代の到来を思わせた。
話は少しさかのぼるが、KODAKの110カートリッジフィルムを使うポケットインスタマチックや、国内メーカーのポケットカメラといわれるものはC35EFの発売後もしばらくは善戦する。コダック製のものより無駄がなく良く写るフジカなどのものが(でたぁ~~SEDIC製!!)が多かったように思う。
しかし、いかんせんフィルムサイズが違い、画質も違う。。。はずだった。
はずだったのは、110カメラは焦点距離の短いレンズを搭載している。20㎜、25㎜、など。
良いレンズを搭載したものは被写界深度の深さもあって、また当時純正プリントが画質的にも頑張っていたことも相まって、きれいに撮れているように見えることも多かった。
だからフラッシュフジカは400を使わせたかったのだろう。
ファミリーカメラはいつからだろうというと、これがなかなか難しい。戦後2眼レフブームに火をつけた1950年(昭和25年)のリコーフレックスIIIだという人もいれば、フィルムが倍使えるオリンパスペンなどだという人もいれば、自動露出(たいていはメカニカルシャッターでシャッター優先だが)EEカメラ、ことにキヤノンが発売したキヤノネットだという人もいる。
また昭和初期から10年代初めころまでの都市部の生活水準の豊かさは、現在の我々の想像を絶するものがあり、大卒だと初任給60円(これは相当な高給だったはずだ)丸々叩いてベートーヴェンの第九シンフォニー8枚組を買うような時代である。
ドイツのバルダは日本に組み立て工場を作り、またカメラだけでなく自動車のフォードも一部国産化、レコード会社も関税の問題から日本ビクター、日本コロムビアなどが勃興するのだ。
カメラもライカや高級なドイツカメラ、国産化したキヤノンなどは高価で高値の花でも、前時代の乾板使用のハンドカメラといわれる蛇腹の付いた乾板用のカメラは投げ売りされたらしい。またメモカメラと銘打ってボルタビットなどのカメラも比較的安価に発売され、広告などでも女性が写真を撮っている写真が掲載されている。
土門拳が母校の大学を卒業する折、卒業アルバムの写真を撮ったのも1937年(昭和12年)で、このころの文化水準の高まりは急速なものがあった。1940年の幻の東京オリムピックにはTV放送を予定していたほどである。
当時数円という安価で買えた円カメなどもあり、カメラを持ちたい人は安いカメラでよければ持ったし、ちゃんと家族の写真などを欲しい人は写真館に行ったり出張撮影を頼んだ。
ちなみに、
このカメラを開発した内田康男氏は、なんと当地横須賀出身だったということである。軍港を持ち軍需産業、またその従業員を相手にする産業も栄え、酒屋の若旦那からカメラの手ほどきを受けたという。
しかし皮肉なことに、横須賀は当時要塞地帯。
神奈川県の杉田以南は電車の窓のシャッターを閉め、写生画も検閲の対象となった。
であるから、当時の横須賀の世相を知るには、絵ハガキ屋の発行した絵葉書が重要な資料となる。
地形の分かる写真などはご法度で、ロクに写真も撮れなかったろうに。特高警察にカメラを持って歩いているのを見つかったらスパイ容疑もかけられたろう。
脱線した。
日本はカメラメーカー、光学メーカー、部品のメーカーなどが乱立し、しのぎを削ってきた。
戦後室内写真に対しては大口径レンズ、ピントの外れないように距離計連動といった、ドイツでは高級なカメラに属するものが昭和30年代よりどんどん出現する。
当初高級カメラであったが、シンプルで大量生産の新工場まで建て、コストダウンを図り、キヤノンが1961年(昭和36年)にキヤノネットを発売すると随分とカメラメーカーが淘汰され、生き残ったカメラメーカーも大量生産で追従してゆく。しかしカラーフィルムは感度がまだ低く、値段やプリント代も高価であり、感度も昭和30年代にはASA10,25,64などで、なかなかカラーは戸外や,フラッシュバルブ(閃光電球)を使った室内撮影となる。
1965年のASA100のカラーネガフィルムの登場は、さぞや心強かったろうと思うが、それ以前から、カメラへの露出計内蔵、EEカメラなどが発展することとなったのは、フィルムラチュード狭くカラー写真は難しかったのである。
高価なカラーフィルムはしばらく価格の中に現像料も含まれていたらしい。
これはフジフィルムを例にとると1965年のフジカラーN100が出るまで続いたようで、ニュースフィルムなども1967~68年あたりを境にして白黒からカラーへと入れ替わる。つまり、昭和40年代初頭は白黒の時代。1970年はカラーの時代となり、1971年からフジカラーもコダックと同様の現像液やプロセスに対応できるようになった。
このころになると、カラー写真もカメラも本格的に大衆化する。
アサヒペンタックスの1眼レフが安かったといってもサラリーマンの月収以上である。
高価なカラーフィルム、きれいな絵を出すために露出の塩梅が難しかった当時のカラーフィルムに対してのEE化によってどんどん大衆化するにしてもフラッシュバルブ(閃光電球)をいちいち買って、家庭平和をカラーで撮るのもそれなりにお金がかかることであるし。エレクトリックフラッシュ(ストロボ)は高価であり、かつ露出の決定も難しかった。
ASA100でガイドナンバーがいくつ、距離が何mだったら絞値がいくつなどという計算式に頭を悩ませ、レンズシャッター機だったらいざ知らず、フォーカルプレーンシャッターだとエレクトリックフラッシュは1/30秒より遅いシャッター速度にしないと絵が途切れるので閃光電球のFP球の方が便利だなぁ、とか、それらの接点の切り替えを間違えたとか、とにかく私も1980年代前後に写真を始めた人間にとっても面倒な思いをしたし、ストロボは中古でも小中学生にはなかなか購入も難しかった。
ああ、つかれた。脱線しまくり。
昭和50年代という新時代を迎え、プラカメ出現、面倒なことは一切抜き、きれいなカラー写真が簡単に撮れるというKONICA C35EF登場だ。距離が目測じゃないかって…いつの時代でも人間が手を下さないといけないのよ。デジカメ時代になっても、瞳認識時代になっても、そっちの人の瞳じゃなくってよ。。。とか、、、だったら中距離にして常焦点状態にした方が歩留まりが良い。
特にカラー時代になってからは、色で表現できるため、多少の解像度の定価よりも色再現の良いほうが良く写って見えた。
色をこってり乗せて写真を見せるという手法は多少のピントの曖昧さも受容する。
戸外だったら3m、屋内でフラッシュ撮影だと、日本の住環境から1.5m位にする注意力があればOKなのである。
以下の3枚の写真は、他のページ。
フラッシュの多様な使用法もカタログで一目瞭然。思いっきり幸せな家庭を演出しているなぁ。
しかしだ、この子たちが成長するころにちょうど「積み木崩し」の時代がやってくるのは皮肉である。じゃ~に~コニカを卒業してなかった新発売時のピッカリコニカの仲間たち


嗚呼、本当に疲れた
- 2019/01/26(土) 01:40:59|
- FUJICA ST-F道とHANIMEX REFLEX FLASH 35道
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何事も現物を手にしないとわからないことがある。
FUJICA ST-Fを追ってフラッシュフジカ、KONICA C35EF、はたまた真正ドイツのホクトレンデルまで逝ってしまった。
もちろんこれはジャンクである。上のカメラの方は動く。
結論から申してこれが世界初のエレクトリックフラッシュ内臓カメラという教えは異端である。
異端審問にかけ、その教えに帰依するものはことごとく火あぶりにせねばならぬ。
物資の豊かなアメリカなどではすでに下記のようなことが常識であったのだ。

プレスカメラなどはフラッシュガンをグリップ代わりにしないと持ちにくいくらいである。
この発想はカメラと高度に一体化させるOLYMPUS XAにもつながる。
また既に小型のバルブを突き刺して一体型としている。

このブローニーフラッシュマイトのような発想のカメラは、日本においても、35㎜や2眼レフの普及型カメラに豆粒大のフラッシュバルブを差し込んだりと、完全一体型になっているものがある。
しかし、米コダック社は、110のポケットインスタマチック時代になってもフラッシュキューブ、マジキューブ。それに縦型に10連発位あるものまであって、それをカメラに突き立てた。フィルム,プリント、フラッシュバルブ、お金はかさむ一方である。当時フィルム代よりも高かったように思う。
当然シルバニアだの何だのメーカー既得権益もあったろうが、小型で威力が強いのも確かであった。
しかし、物資が豊かで浪費癖のあるアメリカと比べると、無駄を嫌がる日本やドイツでは、なんとなぁ~くアメリカンナイズされて搾取されているように感じたであろう。110フィルム仕様のポケットインスタマチックは、マジキューブ(4発)をしたからレバーで突き上げ、電池なしでフラッシュバルブを発光させるといったものだった。しかし、すぐにそれを補うように、マジキューブソケットに同調装置を入れたエレクトリックフラッシュなどが発売される。
ドイツコダックのRETINA S1なども、格好はアメリカンの126フィルム仕様のカメラに見えるが、
http://yotarouyokosuka.blog92.fc2.com/blog-category-121.html↑フラッシュキューブ(要電池)ソケットを持ちながら通常のホットシューも備えている。
4発1個のブリッツ(雷)のキューブが三つ入って、ソコソコの値段がする、などということは採算に合わないと思ったのだろうし、せめてもの抵抗であったと思う。
さて、この今回のVitoronaであるが、カメラだけでフラッシュは機能するであろうか。
それは否である。

カメラに電子回路のどこまでが入っているかは知らん。パイロットランプがカメラ側に入っているので、コンデンサーくらいは入っているのかもしれない。でも電池は
取り外しグリップの中に入っているのだ。これは前述のスピードグラフィックや高度にカメラと一体化させるタイプのカメラと同一と考えてよい。
これが取り外しの利かないもの、もしくはケースがグリップ部までフォローしていて、常に電池グリップを付けた状態で撮影することを励行しているのであれば、世界初のエレクトリックフラッシュ内臓のカメラといってよいだろう。
このヴィトローナの速写ケースを見てみたいところだが、このホクトレンデルのカメラは、ストラップカメラにじかに付けられないのである。吊り輪の耳がない。速写ケースに入れないとカメラを肩から下げられない。

もし(というか多分)この速写ケースがグリップ部を含まないもの(穴くらいは空いているかもしれないが、通常撮影時も電池グリップを付けることを前提としていないケースであれば、
あまたあるように、フラッシュユニットと合体させて高度にカメラと一体化するカメラと何ら変わらないのである。
要するに、フラッシュの1部(たとえ心臓部の発光部、電荷をためるコンデンサが内蔵されていたとしても、本体で完結していなければ、フラッシュの一部が、カメラに内蔵されているに過ぎない。
フラッシュガン内蔵でフラッシュバルブを取り付けるカメラの方が、余程一体化しているのである。
小西六の内田康男が設計する段階において,感電の克服の問題があった。
氏はラボ赴き、露出不足のカラー写真が多いことに気づきそれを克服せんがためにC35EFを思い立ったのである。
もちろんそれ以前のカメラでも、暗くなるとシャッターボタンが押せなくなり、フラッシュを付けて、フラッシュのモードにすると撮影できるというようなものは、セレン式のEEカメラにも良く有ったことである。でも外付けフラッシュまで律義に持ち歩く人はなかなかいなかった。親類の宴席にでも行く人は、「自分は写真係」だと思い込み、フラッシュまでわざわざ持って行ったのである。
どうであろう。このVitoronaは、セレン露出計を内蔵して距離計連動になっているVITO CLRなどと同じ大きさである。
この頃のホクトレンデルのカメラは大きい。
更に単2電池を2個入れる重いグリップを持っていくのだったら私はVITO CLRなどにエレクトリックフラッシュを付ける道を選んだであろう。

ちなみに多少弁護すると、フラッシュマークに絞リングを合わせるとフラッシュマチックが動作し、フラッシュのガイドナンバーは24だそうである。
たとえ電池であってもカメラ本体に入っていない以上は、世界初のエレクトリックフラッシュ内臓カメラとは言えないのだ。
内蔵しているのはエレクトリックフラッシュの
一部だ。
かくして、きちんとエレクトリックフラッシュ内臓のカメラはKONICA C35EFピッカリコニカであり、Vitoronaはつなぎの変種である。
歴史はあとになってみないとよくわからないことがある。
何が何でもこじつけで自分が初めて自分が一番という韓流の考え方よりも冷静に考えたつもりである。
何しろVitoronaは、ピントは目測、露出計もなし、シャッタースピードも絞もどうすればよいかわからないカメラだからである。電池グリップを付けないと存在意義をほぼ失うといってよい。
これは予想以上の重みとバランスの悪さがあり、例えばNikonのF2にフォトミックとEEコントローラーを付け、モータードライブを付けたような、そんな感じさえするのだ。
ピクニックに行くとき、神はゲルマン人に契約としてホクトレンデルのこのカメラに必ず電池グリップを付けねばならぬと、契約し、ラビたちは立法において、いついかなる時にもこのグリップを付けねばならず、ホクトレンデル者、いやゲルマン人であればグリップを外した途端、石打の刑に合わねばならるとでもいうのか。
また、世界初の・・・と言っている人間は何人といえども、執拗に探され、数十年経っても数百年経っても探され、石打の刑にあうだろう。
楽しいピクニック。日陰にもなろうし、逆光にもなろうから、必ず電池グリップを付け写真を撮らねばならぬと?
このような律法は異端であるし、ドイツ人にユダヤ教はあまり、、、歴史的にもなじまないように思うが、頑固さと形式主義的なところは似ている。
Vitronaはフラッシュの一部をカメラに内蔵させたユニークな変種であると書き換えるべきで、
世界初のエレクトリックフラッシュ内臓カメラというのは教えは異端であり、十字軍を編成してドイツに攻め入らなければならないのだ。
- 2019/01/24(木) 13:18:32|
- FUJICA ST-F道とHANIMEX REFLEX FLASH 35道
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昨夜遅く、電極を磨いたりしたが、電池を入れても通電せず、磨き足りないか、液漏れで中の回路などが侵されたか。
それで推測となる。
エニグマ「謎」は英国人エルガーの作曲したエニグマ変奏曲(管弦楽)であり、ラ・トラヴィアータはヴェルディーの作曲したオペラ「椿姫」といった方が通りがいいだろう。「道を踏み外した女」という意味である。
このHANIMEXのカメラが男か女かは別として…
この推測には大きな前提がある。フラッシュと露出計は別として、その他カメラの一連の動作には電源を必要としないという大前提に立っている。だからもし電源を必要としている場合(ミラーシャッターのスリットなどの幅の制御によるシャッター速度の変化などの設計になっている場合)私の推測はいっぺんで成り立たなくなる。
絞の制御については、電源のない状態で変化しているからこちらは関係ない。EEカメラではなくあくまでマニュアル露出機である。
HANIMEX REFLEX FLASH 35ではFUJICA ST-Fと違い極限まで切り詰めた寸法になっていて無駄がない。であるからフィルター口径は46㎜である。FUJICA ST-Fは1眼レフらしくしてフラッシュマチックなどの機構を入れ、フードなどの必要ないようにレンズを奥まったところに置いたためフィルター口径は49㎜である。
このRD35dは49㎜でレンズの焦点距離は45㎜に伸びている。
またFUJICA ST-Fの様にレンズは奥まらせ、ASA感度は設定を鏡胴の方に移した。
レンズが奥まっているのはやはりハレーションなどの防止に役立ち、また戦前から1960年代の日本人様に。ケースのストラップにフードケースを付け、カメラも速射ケースを付け、撮影ごとにフードを付けるなど生真面目な習慣を持たない人々向けであったといえる、またと小幅など全体に一回り大きくなったのは、機能的には説明がつかない。単に使いやすかったからではなかったのではないか。外人さんで背も手も大きい人にとってはFUJICA ST-Fの操作は困難を極め、日本人のなかでも手の大きくない私にも、フラッシュマチック機構が邪魔し、絞の変化、ピント操作がやりにくい。また絞ダイヤルの下にASA調整レバーを付けたため絞を変えたと思ったらISO感度を変えていたなどの御操作が多い。
また焦点距離が伸びたのも、バックフォーカスを必要とし、レンズとミラーの間に何か入っていることを暗示させる。
その点まだ同族とはいえHANIMEX REFLEX FLASH 35の割り切った設計は誤操作が少ない。
そして、このRF35dくらいの大きさだと持ちやすく、操作しやすい。
ASA感度設定のレバーもピントリングと絞リングの間、向かって左斜め上・・・操作中触らないような所に対比してある。
これはとりもなおさず、絞リングとフォーカスリングの間に余裕があるということに他ならない。
(この点HANIMEX REFLEX FLASH 35はピッカリコニカ系のカメラと同じくレンズが奥まっていないから、レンズの周りのリングを回して設定するから誤操作は少ない)
しかしこの大きさだと、小型1眼レフの大衆機も台頭してきて1981年にはフラッシュ内臓のレンズ交換式(フォーカルプレーンシャッターだがB,60.125,250,500という思い切った仕様)のMAKINON MKなどが発売され輸出専用機として出てくる。
そもそもにFUJICA ST-FやHANIMEX REFLEX FLASH 35は、SEDICの社長さんのあくまで「フラッシュ付きコンパクトカメラとしての1眼レフ」という発案、専務さんの大胆な設計に由来しているが、HANIMEX RD35dは違うのだ。
各部を見ていこう。

電池蓋が全く違う構造になっていて何故か単4電池2本に代変更されている。
大きさに余裕が出たので視度補正レンズもはまる。

上から。reflex flashとRFの略称を説明しているかのようだ。HANIMEX REFLEX FLASH 35に付いていたシャッターボタン後ろの、露出計作動スイッチがなくなっている。

ファインダー内。露出の+・-の表示は上に。視野の左右がひどく、プリズムの腐食が進んでいるようだ。

そして、これは通電させないとわからないが、推測として最も合理的なのは、露出計のスイッチである。
絞リングに指をかけると自然と親指がこのボタンを押すのだ。これは(もしそうであるとするならば)FUJICA ST-FやHANIMEX REFLEX FLASH 35よりも人間工学的に優れている。
(追記・・・この後電極磨きを励行した結果一瞬通電し、露出計作動スイッチであることが確認できた)
さてシャッターを開いたときに見える絞状のものの形を見ていこう。2.8は開放だから割愛。
ピントも合っていないので、大体の形から類推。

2枚羽の簡易絞的ですね。FUJICA ST-FやHANIMEX REFLEX FLASH 35の構造では出せない形です。
最終的に考えられるのは、この一連のミラーシャッター機は、構造が簡便なのが第一で、
FUJICA ST-FやHANIMEX REFLEX FLASH 35のような独創的な機構を持たない限り、初期のEEカメラの様にシャッター速度は単速で絞りのみ変化、絞りの変化は自動ではなく露出計を働かせながらファインダーを見ながら調節する。
またこのカメラの大きさ、ゆったり設計は、HANIMEXの会社の性格上、安価なものを全世界にばらまくわけだから、器用で経験を積んだ修理工を全世界にいきわたらせるわけにもいかず、修理代も高価では意味をなさず、多少の経験を積んでいれば修理しやすい、部品の交換をしやすいというメリットもあったのではないか。
シャッターが単速であっても絞はf2.8~22まであり、1/250くらいに設定すればASA400でもギリギリ海山晴天でもなんとかなるであろうし、ASA64のコダクロームなどでも低照度時はフラッシュが付いているから撮れるというわけだ。フラッシュマチックはついていない。
レンズの銘板のAutoはこの、おそらく2枚くらいであろう簡便な絞りが、シャッターが開いている間絞られる、1眼レフでは当たり前になった自動絞りのAutoではなかろうか。
このカメラは珍機ではあるが、私の追っているFUJICA ST-FとHANIMEX REFLEX FLASH 35からは外れるので、万難を排して正常品、もしくはプロの修理屋さんに出すことは考えていない。
- 2019/01/21(月) 13:25:31|
- カメ欲について考える
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本日米国より着荷
これはFUJICA ST-F/HANIMEX REFLEX FLASH 35とちがう第3のカメラだ。
もちろんミラーシャッターでmade in JAPAN
海外サイトの画像はあるが情報がない。
紛らわしいのはHNIMRX RF35はレンジファインダー型小型EE機で
このRF35dはレンジファインダーではなくレフレックス・フラッシュの略のRFである。
とあるサイトには1978年との書き込みがあり、とあるサイトには1981年とある。
前記のものはRF35の年式であることの可能性が高く、後記のものは、他機種の年式に誤りが多く信頼できない。
また私が追っているSEDIC作のFUJICA ST-FとHANIMEX REFLEX FLASH 35は、外観は違うが発送は同じ。だけど、
両者に極度に納入業者カスタマイズされた、
1979年の4月HANIMEX REFLEX FLASH 35と6月発売FUJICA ST-Fとは幅、電池、レンズの焦点距離が違い、そして何より特徴的な、絞った時に(フィルムを巻き上げていなくても出てくる)バー状の絞の下半分がシャッターボタンを押しても出てこない。
そして露出計動作ボタンが省かれている。
シャッター半押しで露出計動作か。
長年使われてなく部品取りにしてくれみたいなことが出品者の記述があった。
だから期待はしていなかった。とにかく現物が見たかったのであるが、
お決まりの液漏れ。蓋の電極はやすりで拭きやすいが、単4電池なため奥の電極がやすりをかけにくい。
まあそこんところはゆっくりやるとして左右の視野が大きくプリズムの腐食があり、視野上にプラスマイナスの表示が出るようになっている。
EEではないな。
でも+・-が視野上ってのは珍しい。よくあることだけど、何とかしようとして組み間違えたか??
しかし、そんな乱暴なことをしたような分解痕はない。
電池は一番端ではなく少し内側に入れるようになっている。
蓋もスライド式で外れるものではなく、一般的なコンパクトカメラやAF1眼に見られるタイプである。
絞の形もFUJICA ST-FやHANIMEX REFLEX FLASH 35とは違う形になり、シャッターボタンを押しても
絞の下半分が顔を出さないことから、絞りは別にあるような気がする。一般のプログラムEEのシャッター件絞のような形状になる。
レンズに罹れているAutoというのも謎だ。通常のレンズシャッター型のEEプログラムシャッターであれば、絞りもファインダー内のプラス・適正・マイナスの表示もいらなくなる。
単に、ミラーシャッターは単速に、それに簡便な絞りを加えただけだろうか。
コーティングは安そうなブルーのコーティングである。
少し大きくなり、扱いやすくなった。
しかし、ここまで来ると、ペトリのスクリューマウント時代のMF-10などのHANIMEXブランドの方がユーザーには徳である。
ASA感度によってシャッター速度(ミラーの上下する速度は変わっているようには思えない。
少なくとも電極を磨いて、何とかなれば少しは謎が解ける可能性もあるが、電池によって何かオートになるような気候であれば、コストもかさむだろうしシンプルであるが故に調整を要さないというメリットもなくなるだろう。距離付きのフラッシュ内臓プログラムEE機だと、衝撃や、経年で距離計がずれかねない。
であるからしてFUJICA ST-F~HANIMEX REFLEX FLASH 35のようなプリズムを搭載してまで簡易で調整の要らなそうなカメラを開発したのではないかというのが推測である。
プリズムはドンとボディー側に据え羽で引っ張って固定するのみ。スクリーンもL字の板状の部品でボディーの上にできるだけ押し上げて固定しているだけで、ミラーも最大限バネで引っ張っているだけだ。
あとはバネがバカになってミラーの上下が虚弱になったり止まったりするのみで、調整というよりも壊れるのを待つのみである。
しかし、その前にプリズム腐食とフラッシュ系の不具合が出るものが多いが。モルトを交換して漏光を防げば、ヤマカンで撮影はできる個体が多い。今まで3機種計14台扱ってきた中でミラーシャッターの元気度の違いはあって、露出に影響は与えるかもしれないが、調整して動向というものではなく極めてシンプルで大胆だったのがFUJICA ST-F~HANIMEX REFLEX FLASH 35の最大特徴であったのだが、RF35dはいかがなものだろうか。
- 2019/01/20(日) 14:53:25|
- FUJICA ST-F道とHANIMEX REFLEX FLASH 35道
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前駆洗者イオアン(いかん、またロシア正教への親和性が出てしまった)
洗礼者ヨハネのとイエスキリストの誕生を予告した天使ガブリエルのような存在である。
どう考えても洗礼者ヨハネかピッカリコニカ、イイススハリストス(いかん、またロシア正教への親和性が出てしまった)イエスキリストはジャスピンコニカなのだけど、そんな公式見解は世に山ほどあり、信仰ではない。
わたしはFUJICA ST-F者でありセディック者である。
洗礼者ヨハネはフラッシュフジカでなければならばい。
小西六写真工業のピッカリコニカの光明はあまりにも大きく、
ファミリーカメラの道を大きく切り開き、ジャスピンコニカで決定打となった。
私としては2世紀のエウレナイオス、そしてニカイア会議のごとく正典と外典を振り分ける。
正典(いかん、これはcanonでないか…これホント…言葉の意味に於いてである)を富士にしてしまおう。
この信仰は富士写真フィルムーSEDICにつなげなければならない。
サクラメントであるFUJICA ST-F・HANIMEX REFLEX FLASH 35の奇跡的なミラーシャッターとフラッシュの内蔵。
SEDICの専務さんと社長さんは人間には見えざる神のような存在である。
信仰といえども人間のすることである。
偽善たる聖職者が自らの正当性を会議で争うがごとく、生存者が正典を書く権利があるのだ。
また勝ち残ったものは、自分が負かしてきたものの偉大さを知る。
ピッカリコニカはとある村のおばぁちゃんに啓示を与え、多数のイコンを描いた。
増山たづ子さんである。
この貴重な共同体というかトポスを残したのはギリシャ正教でいえば「ミステリオン(機密)」であるが、
後に分裂した自らを普遍的なと言い張るカトリック的に言えば「サクラメント」(秘跡)である。
正教会のミステリオンは小西六写真工業にふさわしい。
なにしろ、正教会は何しろOrthodox Churchであるから小西六写真工業の、
ピッカリコニカ―ジャスピンコニカービッグミニの系譜にふさわしい。
一方、本国のコンスタンチノープルを奪われ、ロシアに遷都し、ロシアでも革命で宗教を否定され、日本においてもニコライ死後衰退を辿った正教会にどことなく、無理やり小西六(コニカ)を投影する。
その点本国ローマは生き残り、縮小すれどもローマは健在でバチカンの巨大なヒエラルキーが健在で、普遍を謳うために様々な主張を受け入れる、いわば党内派閥のようなものを内包してしまう自民党のようなもの、ここにフジカ(フジ)を投影することとする。
その暴かれてしまったアポクリュフォンはSEDICである。
この1本足の独国聖像製造暗所光明機は旧約聖書の予言であろうか。
聖典や秘跡、聖遺物の比較検討、掘り下げは入念に時間のある時に写真資料をそろえてやらねばならぬ。
信仰も大変である。本当の正史を生き残りのために押しのけ新しい正史を打ち立てんと、逃走せねばならない。
ニカイア会議で主導権を握りFUJICA ST-F-SEDIC教を布教、宣教せねばならないのだ。
しかしSEDICのカメラは多くのブランドに名を変え、全世界の多くに人の手元にわたり、ふぃみりー写真を支えたのも事実である。
また富士写真フィルムは富士フィルム(あ、社名にまだフィルムが残ってんのね)、と名を改め現在でも電影写真や化粧品で生き残っている。
生き残ったものが正史を飾る。
いささか中世的な発想だがこういうことにしよう。
旧約の予言がホクトレンデルのヴィトローナだとすると、洗礼者ヨハネがピッカリコニカであり、聖母マリアがフラッシュフジカであり、当時の常識のとらわれないFUJICA ST-F・HANIMEX REFLEX FLASH 35がイエスキリストである。
短い宣教の後に贖罪した。
そして私はホザンナ・ホザンナと叫びながらロバに乗ってやってきた救世主FUJICA ST-F・HANIMEX REFLEX FLASH 35を迎える群衆である。
そして私は本当の正史を押しのけて外典に貶めた、エウレナイオスである。
- 2019/01/18(金) 23:54:49|
- FUJICA ST-F道とHANIMEX REFLEX FLASH 35道
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先に、いろいろなところから9-12月号をバラバラに頼んであって、最後に10月号のセディックが届いたときには、1-12月号をヤフオクで入札してしまった後だった。だから当初の目的では膨大なロスと金銭が(金銭は膨大とは言えない)出たわけだが、1-8月号の中に収穫がなかったわけではない。

有名なメーカーは(ヤシカ・トプコン・コーワなど)別として、あこがれの国産プラウベル・マキナの誕生、成立秘話、東郷堂、そしてマキナ光学のマキノンだ。三宅岳氏の取材では、他社の取材の時より困難を極めたようだが、物証、特に氏がMKとMKIIIを所持していらして、また、発売当時のカタログを、当時から所持しておられたことである。
輸出機ではあるが。ヨドバシカメラにはおいてあったらしい。
あとコーワの中でもプロミナーの名を冠したレンズには特定の硝材が含まれていることなど、収穫は大きかった。
しかし、9-12は2冊はいらない。
ダブったぶんをほしいかたは申し出てくださいませ。
- 2019/01/18(金) 08:52:43|
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ボディーとレンズボードが左右逆だと思ってください。
美dグーの方は正面から見たのもので左右同じです。
レンズボードの方は、内側から見たので左右逆になります。
かがみ合わせのような状態です。
レンズボードの上の真鍮色のアームが高いところで止まっています。
ボディーの方では、そのアームがミラーの右端を高い位置で止めます。
レンズボードの下の黒いアームも光路を邪魔せず、ミラにくっついている変な7角形の穴も高い位置で止まるため最終的には光路の邪魔をしない。最終的にはアームと接触するから完全ではないけれど、フルスイングな状態。
シャッター速度も、ミラーの往復時間が長くなるためにシャッター速度も遅くなります。
尚ミラーは手前に来るほどつぼまっている台形で、向かって右だけが何やら電極の様になっています。

レンズボードのアームの端にもリード線が付いているので、ミラーのわきの電極と接触してフラッシュに電流が流れる…課(電気音痴なので)。

最小絞にすると下から黒いバーが随分せりあがってきます。下半分位が隠れるような感じ。
上のアームも下がってきて、随分低い位置で上のアームに蹴落とされてしまいます。
ミラーの下の七角形の穴も上部の三角形の部分しか見えずしかも底辺にレンズボードの下の黒いアームがほぼ真ん中まで来ていますので極小さい3角形になり、短時間(このカメラだと1/500秒)底辺はアーム、上の2辺はミラーの下についている7角形の上の三角形の部分)と共同してごく小さな3角形の光路ができます(実際は下のアームが緩やかな「へ」の字になっているので底辺も真ん中が持ち上がり両端は下がっています)。
ミラーシャッターの場合、スリット幅を調整してシャッター速度を変化させ、絞りはレンズに内蔵するのが普通ですが、
シャッター制御がないから単速かと思いきやミラーのフルスイングさせたり、半分で蹴落としたりして調節するのは誠に面白く、高価なペンタプリズムを搭載しても元が取れるかもしれないという構造ですね。
やはり、HANIMEX REFLEX FLASH 35も、多くの方がFUJICA ST-Fレストア記事と同じ構造。
私の場合は、ジャンクを、構造が知りたいがためにただ壊しただけです。
- 2019/01/15(火) 00:29:19|
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